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紙の子守歌   (42)



 十五のころ、春恵は、となり村へ使いにでかけた帰り道、自分のうわさ
を耳にしたことがあった。胸にしまっておけばいいことを、陰にかくれて
しゃべりたがる、そんな人間はどこにでもいるものである。
 春恵は、女たちの話しをきいて、たしかにおどろきはした。勝次夫婦の
歳と自分とのあいだを考えれば、それはほんとうのことのように思えた。
だからといって、それほどの悲しみの感情もわいてこなかった。現に春恵
は、勝次の嫡女として戸籍に記されていたし、ふたりへの情愛にいまさら
かわりはない。うわさが、うそでも本当でも、春恵には、どうでもいい。
それが春恵の生来の性分でもあったのだろう。ときおり、ふとそのことを
思いだすだけで、ふだんはたいしたこだわりもなかった。

「なにをいう…。おまえは、わしらの娘だ」
 そういっている勝次の胸のうちを、二十年まえのことがよぎっていった。

 よく晴れた秋の、あかるい夕ぐれだった。
 その日、勝次は、簀編みにつかう竹のようすをみに、近くの竹やぶにで
かけた。それは、勝次の、竹を切りだすまえの習いだった。
 坂道から竹やぶにはいったすこし奥に、美しいきものが巻くようにして
おいてある。近寄ってみると、なかに、ちいさなちいさな子どもがいた。
勝次は、赤ん坊をきものごと抱きかかえると、いっさんに家へかけもどっ
た。
「おい、ばあさん、ちょっと」
 おおきな声におどろいて、正子が戸口へとびだしてきた。
 勝次が、赤ん坊を抱いていた。
「まあ、どこでそんな赤ん坊を…」
 竹やぶでのことを、勝次は、正子に説いてきかせた。ふんふん、と勝次
の話しにうなずきながら、正子は、赤ん坊から目がはなせなかった。
 ちいさな身体をおおった絹が、たそがれていく陽のなかで、むかいの山
の錦繍をうつしたように染まっていた。大尽か、大家の娘が着るようなき
ものだ、と勝次と正子は、おたがいの顔をみあわせた。光をあつめて艶め
いている絹の衣。それがかえって、この子の尋常でないめぐりあわせを物
語っているようだった。五十をとうに越えた、子のない夫婦にとって、そ
れは夢のなかのできごとのように思えた。
 秋は、竹の春である。ふたりは、娘の名を春恵とつけた。

                           (つづく)

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「紙の子守歌」は、毎週月曜日・木曜日(平日)に掲載します。

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by revenouveau | 2007-02-08 09:55 | 小説のようなもの
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