坂道をいくと、竹やぶをすぎたところで春恵が待っていた。 「もう、おすみですか」 「はい。勝次さんの簀編みの腕はさすがです。もちろん、奥さんのちから も必要でしょうが、みごとなものです」 「ええ、おかあさんがいなければ、あんなに巧くいきません。まるで、ふ たりでひとりのようになって編んでいくのですから、私もそばで見ていて ふしぎなようです」 「ほんとうに仲のいいご両親で、春恵さんも幸せです」 「幸せ…」 問いかえすような春恵の言葉には、微妙なひびきがあった。 「松野さん、お時間があれば、花を褒めにいきませんか。きっと、芝川の 桜も満開だと思います」 松野は、富士宮の山をおりたところで、桜の古木が、たいそうたくさん の花をつけていたのを思いだした。二羽の紋白蝶をみたすぐあとだった。 「はい。きれいなひとと花を褒めにいくなど、めったにないことです。よ ろこんでお伴しましょう」 まあ、と春恵は、袂をひろって松野をたたくふりをすると、こばしりに 坂道をくだっていった。 春恵が足をとめたのは、葉蔵につれられて、松野がはじめて勝次の家を 訪ねた日、三人が顔をあわせたあたりだった。 河原におりるとき、松野が、二、三歩さきだったゆき、春恵に手をさし だした。春恵は、河原におりるのは慣れていたが、それにかるく指をのせ た。わかい男の手にふれるなど、はじめてだった。背中のあたりに妙な感 じがあった。 河原におりて対岸に目をやると、土手のうえに桜が三本ならんでいた。 いずれの幹も、子どもがひとり腕をまわせるほどの太さである。河原には、 ふたりのほかにだれもいない。すこしはなれたところから土手沿いに川柳 がずっと植えてあり、春の川面にゆらゆらと、やさしい情趣をうつしてい た。 (つづく) 「紙の子守歌」は、毎週月曜日・木曜日(平日)に掲載します。 << よろしければクリックを
by revenouveau
| 2007-01-29 09:31
| 小説のようなもの
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