水を打った、束ね草をかたづけながら、源造は、宇佐美のこの地へと 自分を導いてきた妻のことを思った。 志津の生まれた瀬戸内の島は、おおざっぱな地図にはのらないほどの ちいさな島だったが、海をのぞみ、山を背負った、坂のある島の景色は、 彼女の心につよい思い入れのある情景として根づいていた。 「山のくらしもいいけれど、いつか海の見えるところに住みたいわ」 志津は、そんな言葉をもらすときがあった。晩年のことである。 源造が天城の家を引きはらい、宇佐美にすまいをうつすことを選んだ のは、志津の目に海を見たからだった。 また、宇佐美をふたりの新天地ときめたのには、海をのぞんだ土地と いうほかに、もうひとつの理由があった。 「あら、こんな近くに、島と似たようなところがあるなんて。海といい、 坂の感じといい、…。ほんとうに、ふしぎだわ」 伊豆の観光地を特集したテレビ番組をみているとき、志津がつねにな い興味をもって見入り、おどろきの声をあげたのを耳にしたことがあっ たからである。 宇佐美が、童謡『ミカンの花咲く丘』の生まれたふるさとだというこ とを、志津は、このときはじめて知った。 落ちぶれたとはいえ、何代もつづいた旧家をすてることへの葛藤がな かったといえばうそになる。けれども、志津は、瀬戸内の島をあとにし てきたのだ。苦労を覚悟で源造の家にはいり、よりそうように歩いてき た。けっきょく、海の見える土地へ居をもとめたのは、たいへんなとき を、ともに生きてきた妻への、源造の感謝の気持ちでもあったろう。 けれども、志津は、宇佐美にすまいをうつして、三カ月ほどでみまか っていった。 おだやかな秋のおそい朝である。凪いだ海のおもてに、ちいさな光の つぶがやわらかく輝いて、ものしずかな女性の生涯を物語っているよう に思えた。 源造には、志津が、生まれた故郷の島に似た、海をのぞむ坂のまちか ら旅立っていけたことが、せめてものなぐさめだった。 (つづく) 「うつわ」は、毎週月曜・木曜日(平日)に掲載します。 << よろしければクリックを
by revenouveau
| 2006-02-20 08:18
| 小説のようなもの
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