カテゴリ:小説のようなもの( 102 )

紙の子守歌   (50・最終回)



     あっちの楮は みごとでござる

 あっ、と山並は、声をだしそうだった。
 松野が、いま目のまえでうたっている歌を、山並は、知っていた。

     あっちの楮は みごとでござる
     こっちの楮は どうかいな
     ゆらり ゆられて 舟のなか
     ゆらり ゆられて 紙こにおなり
     紙こになったら なにあげよ
     紙こになったら あめひとつ
     白いべべ着て 村をでる

 山並が、子どものころ、布団にはいって寝付くまえに、母がとなりでう
たってくれた歌である。
 気づくはずもなかった。
 春恵の物語は、しかし、母、春乃の物語だった。
 こんなことが、あるものなのか。
 萱の簀桁は、やはり、借りるわけにはいかないだろう。
 伝えつづけなければならない歴史や過去があるように、しまっておきた
い過去も、あるいはあるのだろう。山並は、考えた。
 矢場でみた、鷺草のちいさな白に、母のつつましい半生が、かさなるよ
うにしてうかんできた。

                             (了)

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「紙の子守歌」は、今回で完了となります。
おつきあいいただき、誠にありがとうございました。

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by revenouveau | 2007-03-08 10:14 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (49)



              ■□■

 では、母屋へ、と松野は、山並をうながした。
「ありがとうございました。たいへんなお話しをきいてしまったようで
す。これでは、萱の簀桁は、あきらめざるをえません」
 松野に案内されながら、山並は、感慨深げにいった。そして、なにか
思いあたったのか、山並は、すぐに言葉をついだ。
「矢場に白砂を蒔いたのは、そのあとですね」
 松野は、山並のほうをむいて、目でこたえた。
 母屋につくと、かねて借用の依頼をしてあった簀桁が、きれいに洗わ
れ、用意してあった。よくつかいこまれてはいるが、がたはきていない。
しっかりとした仕事だった。漉き舟のうえに吊るための付属品もある。
ひとりでは運べそうになかった。山並は、松野の家の電話をかりて、会
社に連絡をとり、運搬の手配をした。
「これも、勝次さんの仕事ですか」
 簀桁の荷をつくりながら、山並がきくと、松野は、うなずいた。
 梱包をおえた山並は、傍らにぬいであった上着をきた。
「ほんとうに、ありがとうございました。おいとまするまえに、もうひ
とつだけ、お願いがあるのですが…」
「さて、なんでしょう」
 山並は、葉蔵から紙漉きを教わったばかりのころ、紙を漉きながら、
松野がうたっていたという子守歌をききたい、と所望した。
「子どものころにつくった歌ですので、まことに幼稚なもので、はずか
しいことですが…。ひとつ、うたってみましょうか」
 そういって、かるく咳払いをすると、松野は、うたいはじめた。

                       (つづく・全50回)

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by revenouveau | 2007-03-05 10:46 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (48)



 春恵は、きものの前褄をとって、川に足をふみいれていった。
「どうして…」
 流れに足を洗わせていると、涙が堰をきったようにこぼれおちた。とめ
どもない川の流れといっしょになって、涙は、ついには海にいきつくのだ
ろう。
 春恵は、松野と、はじめてこの河原におりたとき、散っていく花のさだ
めを語ったことを思いだした。そのとき、松野は、いのちいっぱいに自分
を生きていく、そこに報われるものがあるのではないか、と説いてきかせ
た。
 別れなければならない男と、どうして身体をあわせたのか。
 自分もきずつき、男もきずつけてしまうことは、はじめからわかってい
たことではないのか。しかし、それを、わがままとは思えなかった。そう
することで、男を忘れられる。男も、女を忘れられるだろう。そう考えた、
自分のたくらみの残酷さが、春恵の心を、ひしひしとさいなんでくる。
 まだ冷たい流れのなかで、春恵は、きものの裾が濡れるのもかまわず、
ただ茫然とたちすくんでいた。

 勝次から、松野のところに手紙がとどいたのは、それからまもなくのこ
とだった。
 事情があって他所にうつることになった、懇意にしてもらって大変あり
がたかった、と述べ、以後の簀桁づくりは別の職人に頼んでほしい、腕は
保証する、と職人の名前と連絡先が記してあった。
 封を切ったとき、とつぜんのことで、松野は、ひどくおどろいた。すぐ
さま、松野は、芝川へむかった。
 ときすでに遅く、かつての勝次の家には、だれもいなかった。松野は、
近所に家族の行方をたずねて歩いたが、どうしたわけか、くわしい事情を
知るものはいなかった。春恵が捨て子だった、ということを、松野が偶然
のように知ったのは、そのときである。
 紙漉きと弓に打ちこむしかないだろう。松野は、富士宮の山かいの道を
のぼりながら、そう自分を叱咤していた。
 夕ぐれていく春の、濃い青のなかで、桜の古木のそこだけが、白く、冷
たく燃えているようにみえた。

                       (つづく・全50回)

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by revenouveau | 2007-03-01 09:38 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (47)



「お待ちどおさま」
 部屋にもどると、松野が、萱の簀桁を手にとってながめていた。
「いや、失礼。勝手に風呂敷をといて、あけてしまいました。みごとなで
きばえです。さすが、勝次さんの娘さんだ。かえるの子はかえる、とはよ
くいったものです」
 春恵は、ひざをつき、盆のうえで茶托に茶碗をのせると、どうぞ、と松
野のひざもとにさしだした。
「手間もお金も、たいそうかかったでしょう」
「ええ。でも、だいじょうぶです。お代は、ちゃんといただきますから」
 男に会えたうれしさで、女は、そんな軽口をたたいた。
「しかし、いいできです」
 松野は、また簀桁に目をうつし、顔を近づけ、しげしげとながめている。
「簀桁ばかりに気をとられて、私は、どうなるのですか」
 いってしまってから、はっとして、春恵は、畳に目をおとした。
 手にした簀桁を、松野は、ゆっくりと畳のうえにおいた。そのまま簀桁
を部屋の隅へ押しやって、ひざもとの茶碗をよけると、松野は、春恵のと
ころへにじりよってきた。
「会いたかった、とても…。けれど、仕事があったのでしょう。春恵さん
が仕事にかけているぶん、ぼくは、紙漉きと弓に打ちこんできました。こ
うして、はなれているあいだ、ぼくには、はっきり観えたものがあります。
春恵さんが、必要です」
 春恵は、まっすぐ、松野の目をみつめた。
「うちにきてくれますね、春恵さん」
 松野の問いは、明快だった。男は、待った。
 めずらしく野鶲がきて、庭さきで啼いている。
 紙障子のむこうには、昼どきの春のあかるさがあった。紙の肌理をとお
してくる、やわらかくこなれた光を目の端にいれながら、春恵は、ゆっく
りとまぶたをとじた。そうすることが、いま松野が、いちばん欲している
ことだ、と感じたときには、肩を抱かれていた。まなかひに、ふれてはい
ない重さがある。松野は、唇をかさねた。すっと、眠りにひきこまれるよ
うなだるさが、春恵の身体をとりまいていく。はじめておろした銹朱の帯
が、するするとほどけていった。
 ああ、このひとと結ばれていくのだ、と思ったとき、春恵は、まっすぐ
に傾斜していった。そのあとは、ふたりだけの世界である。男が女をつら
ぬいていく。身体をあわせていながらも、肉欲とは無縁のようだった。あ
とは、どうなったのか、春恵にはおぼえがない。
 気がついたとき、春恵は、芝川の流れのまえに身をおいていた。藍木綿
の棒縞のきものは、しゃんと着こなしていたが、下駄はかさねて手にもっ
ている。足もとに目をやると、くるぶしのあたりまで黒い山土でよごれて
いた。

                       (つづく・全50回)

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by revenouveau | 2007-02-26 10:24 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (46)



 ようやく、萱と馬の尾毛で編んだ簀桁ができあがったのは、となりの家
の土蔵に燕が巣づくりをはじめたころだった。ときおり、白いはらを空に
みせながら、嘴に泥をくわえて田圃と土蔵とを往還する。
 春恵は、仕上がった簀桁をくいいるように調べ、なにごともないことを
みとめると、ていねいに薄紙をかけ、風呂敷につつんだ。
「それでは、いってまいります」
 戸口のところから、身体をななめにむけて、春恵は、勝次と正子にでが
けのあいさつをした。おもては、朝の空気が澄みわたって、ここちよい。
 春恵の足は、自然といそぎがちになった。一心に、松野の家へむけて歩
をはこぶ。山かいの道に、すみれの花が、うつむきかげんに咲いていたの
にも気づかなかった。
 あと二、三日したら簀桁ができる。春恵は、手紙にそう書いて、松野に
報せてあった。けれど、とどけたいのは、簀桁ではなく、松野へのはやる
思いだった。
 富士宮の山道をいくと、拓けたところに、背をひくく建てた光悦垣がみ
えてきた。松野の家の、独特のしつらえである。なにごとも、こだわりな
くうけいれてくれる、住むひとの寛容さを思わせるようでもあった。
 松野は、庭さきの井戸で、顔を洗っていた。いきおいのある水の音が静
まると、腰につけた手ぬぐいをとって、しずくをふいた。
「やあ、春恵さん。とうとう、できましたか」
 ぬぐったばかりの、松野の顔が、うっすらとあかい。清潔感のある男だ
が、ひざのあたりのほころびやシャツのしわが、ひとり住みのわびしさを
思わせた。
「はい。心をこめて、つくらせていただきました」
 さ、なかへ、と松野は、春恵を母屋へと招じいれた。
 茶を淹れにたった松野をさえぎって、春恵は、あとをひきうけた。松野
の家の台所にたって、こうして火をつかっていると、松野の妻になったよ
うな思いがわいてくる。男のために、こまごまとした家内のことをやって
すごす。こんなことも、女の幸せのひとつだろうか。春恵は、考えてみた。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-22 10:42 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (45)



「私に、つくらせてもらえませんか」
 仕事場の隅から、春恵の声がした。勝次と松野は、どちらからともなく、
そちらに顔をむけた。
「その簀桁を、私につくらせてほしいのです。私は、簀桁職人の娘です」
 春恵の目が、凛とかがやいた。
「春恵さんが…」
 はい、と春恵は、松野をまっすぐみつめた。
「娘がやる、というのですから、私が断るわけにもいきません」
「おひきうけしても、よいのですね」
 春恵は、松野とも、勝次ともなく念をおした。
 なん年もこの道を歩いてきた自分が思いやんだことを、娘の春恵は、い
ともたやすくひきうけた。いつのまに、これほどつよくなったのだろう。
勝次は、仕事場の隅でちんまりと坐っている娘に目をやりながら、そのか
わりように感じいっていた。
 勝次は、春恵をうながし、松野の意向をいれて、簀桁の寸法を、定寸の
およそ三分の一の、幅八〇センチ、奥行き四五センチときめた。
 それからの春恵は、いきいきと生きかえるようだった。
 萱と馬の尾毛の簀桁づくりは、しかし、思ったほどにはかどらなかった。
 萱は、すすきをつかった。すすきは、そのへんの野にいくらでもあった
が、竹のように太さがうまくきまらない。おなじイネ科でありながら、こ
うも違うものかと思いなやむ。竹に慣れた春恵の手に、萱は、むずかしい
材料だった。ちいさな炭火で暖をとり、冬の夜を徹して仕事をした。あか
ぎれた指に、細く裂いた萱が容赦なくくいこんでいく。馬の尾毛も、伝手
をたどってたずねたが、なかなか思うようなものが手にはいらない。やっ
と、いいものが集まったのは、節分をすこしすぎたころだった。
 勝次は、娘の仕事を、じっとみまもった。おそろしいまでの気迫がつた
わってくる。それはまるで、春恵のいのちを、簀の一本いっぽんに編みこ
んでいるようだった。
 神々しいほどの、女である。松野を思うと、たとえ地獄にいても、春恵
には勇気がわいた。煩悩の薪を燃やして菩提をえている。春恵の姿は、そ
んなふうにみえた。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-19 09:57 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (44)



 松野が、勝次の仕事場に姿をみせたのは、竹の切りだしがおわった、晩
秋の日の昼すぎだった。
 陽に灼けた色が、わかい男の顔に精悍さをあたえている。
 勝次は、春恵がなにか報せたのか、と訝しんだが、そうではなかった。
仕事場の隅で、仕上がった簀桁の具合を調べていた春恵は、松野の顔をみ
つけてひどくおどろいた。松野は、春恵をみとめると、以前とかわらず、
やわらかな目をあてて軽く頭をさげた。春恵もそれにこたえて、ゆっくり
会釈したが、すぐに仕事をする指さきに視線をうつした。平静をよそおう
春恵は、いたいたしい。正子は、勝次のとなりで、そんな娘をみていて、
どこか辛いようだった。
「きょうは、勝次さんにみてほしいものがあって、山をおりてきました」
 松野は、手にもっていた古い写真集をひらいて、勝次からまっすぐみえ
るように、仕事場の床のうえにおいた。勝次は、ひらかれた頁に目をやる
なり、口をひらいた。
「簀桁ですね。なんともいえず、やさしい簀編みの表情です。これなら、
いい紙が漉けるでしょう」
 左の頁に、白黒の写真で、簀桁が載っていた。右には、説明の文章が活
版で印刷されている。
「萱と馬の尾毛でつくった簀桁だと書いてあります」
「ほう、萱と馬の尾毛…」
 勝次は、松野の言葉をくりかえした。
「ええ、そうです。きょうは、勝次さんに、この簀桁を復元していただけ
ないものか、と相談にあがりました」
「それを、私が…」
 腕組みをした勝次は、すこし思案顔だった。
「私も、萱の簀桁は、話しにきいたことがあります。かつて、材料につか
っていた絹糸や竹ひごの値がひどくあがってしまい、その代用としてつく
られた、ということだったでしょうか…。しかし、いまそれを実際につく
るとなると、難儀なことです」
「そこをなんとか…。勝次さんなら、と思ってお願いにあがったのです」
 ふたりは、しばらく押し問答のようになった。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-15 10:04 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (43)



 撥次は、ようやく口をひらいた。捨て子のことには、ふれなかった。
「なあ、春恵。ひとには、血のなかにしみついた業のようなものがある、
とわしは思う。そのひと一代ではなくて、なん代もなん代も伝わって、し
みついてきたなにかが。それは、ちょっとやそっとじゃ、かわりはしない。
いまはよくても、なん年、なん十年といっしょに暮らしていると、どこか
に噛みあわないところがあらわれる。反りのあわない血は、残酷だ。それ
をかえる方法はあるのだろうが、わしには、わからない。血とは、そうい
うきびしいものだ、とわしは思う。春恵は、かあさんとふたりで、思いの
たけをかけて育ててきた娘だ。だれがなんといおうと、おまえのなかには、
うちの血が流れている。それが、松野家の血と、どう交わっていくのか、
心配でならないのだ。うちには、うちにふさわしい落ち着き先が、きっと
あるはずだ。どうか、そこのところを、よく考えてほしい。それが、かあ
さんとも話しあった、わしらの結論であり、願いだ」
 そういいながら、勝次には、胸のなかでひやりとするものがあった。
 大尽…、大家の娘…。
 そんな記憶の切れはしに思いを馳せてみると、じっさい、そうした本来
のものが春恵と松野とを惹きあわせているのではないか、という推測にも、
勝次は、いきあたるのだった。

「ごめんなさい。捨て子なんて、もういいません。泰昭さんとのことも、
考えてみます…。とう、さん…」
 春恵は、うつむいたままこたえた。言葉のさいごには、嗚咽がまじり、
春恵の身体は、勝次のひざへと、まっすぐにくずれてきた。勝次の胸は、
あついものでいっぱいだった。すまない気持ちと、ほっと胸をなでおろす
ような気持ちとがいっしょにあった。
 おもてには、ことしはじめての蟋蟀が、舌足らずに鳴くのがきこえた。

 それからいくにちかは、春恵は、外出をひかえるようになった。松野と
会っているようすもなかった。
 春恵は、しばらく父の手伝いをするので家をあけることができない、ま
た会うことができるようになったらあらためて報らせる、と松野に手紙を
だしてあった。
 もちろん、松野に会いたい気持ちがないわけではなかったが、春恵は、
顔にはださなかった。もちこまれていた縁談の話しも考えてみた。春恵の
胸のうちは、毀れた簀のように、どこがどうということもなく、複雑にか
らみあっていた。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-13 11:19 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (42)



 十五のころ、春恵は、となり村へ使いにでかけた帰り道、自分のうわさ
を耳にしたことがあった。胸にしまっておけばいいことを、陰にかくれて
しゃべりたがる、そんな人間はどこにでもいるものである。
 春恵は、女たちの話しをきいて、たしかにおどろきはした。勝次夫婦の
歳と自分とのあいだを考えれば、それはほんとうのことのように思えた。
だからといって、それほどの悲しみの感情もわいてこなかった。現に春恵
は、勝次の嫡女として戸籍に記されていたし、ふたりへの情愛にいまさら
かわりはない。うわさが、うそでも本当でも、春恵には、どうでもいい。
それが春恵の生来の性分でもあったのだろう。ときおり、ふとそのことを
思いだすだけで、ふだんはたいしたこだわりもなかった。

「なにをいう…。おまえは、わしらの娘だ」
 そういっている勝次の胸のうちを、二十年まえのことがよぎっていった。

 よく晴れた秋の、あかるい夕ぐれだった。
 その日、勝次は、簀編みにつかう竹のようすをみに、近くの竹やぶにで
かけた。それは、勝次の、竹を切りだすまえの習いだった。
 坂道から竹やぶにはいったすこし奥に、美しいきものが巻くようにして
おいてある。近寄ってみると、なかに、ちいさなちいさな子どもがいた。
勝次は、赤ん坊をきものごと抱きかかえると、いっさんに家へかけもどっ
た。
「おい、ばあさん、ちょっと」
 おおきな声におどろいて、正子が戸口へとびだしてきた。
 勝次が、赤ん坊を抱いていた。
「まあ、どこでそんな赤ん坊を…」
 竹やぶでのことを、勝次は、正子に説いてきかせた。ふんふん、と勝次
の話しにうなずきながら、正子は、赤ん坊から目がはなせなかった。
 ちいさな身体をおおった絹が、たそがれていく陽のなかで、むかいの山
の錦繍をうつしたように染まっていた。大尽か、大家の娘が着るようなき
ものだ、と勝次と正子は、おたがいの顔をみあわせた。光をあつめて艶め
いている絹の衣。それがかえって、この子の尋常でないめぐりあわせを物
語っているようだった。五十をとうに越えた、子のない夫婦にとって、そ
れは夢のなかのできごとのように思えた。
 秋は、竹の春である。ふたりは、娘の名を春恵とつけた。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-08 09:55 | 小説のようなもの

紙の子守歌   (41)



 松野の工房と春恵の家とは、いそいで歩けば一時間半ほどの道のりであ
る。どちらか一方が相手の家のちかくまで訪なうこともあれば、ちょうど
まんなかあたりで落ち合うこともあった。
 わかいふたりが、たがいに惹かれあっていくのは、とうぜんのなりゆき
のようにもみえていた。
 勝次の耳に、そうしたうわさがはいってきたのは、その年の夏のおわり
ごろだった。
 妻の正子とも相談し、折をみて、勝次は、春恵を茶の間によんだ。部屋
は、勝次たちの仕事場とは襖で仕切った奥にあった。
 勝次も春恵もあらたまって坐り、あいだにぎこちない空気が流れている
のを、どちらも感じていた。
「松野さんとのことは、どうなっているんだ」
 静かなものいいだった。
 しかし、とつぜん父からそう切りだされて、春恵には、うしろめたさが
あったわけではないが、ひるむものがあった。
「松野さんて…。泰昭さんのことでしょうか」
「そんなふうによぶ仲になっているのか」
 勝次の声が、すこし荒らんだ。
「なにがあった、というわけではありません」
 春恵も、ぴしゃりといった。
「あたりまえだ。なにかあってからでは、遅いのだ。そうだろう…。松野
さんは、たしかにいいひとだ。仕事の目も利く。職人としてみれば、私は、
松野さんと心中してもいいくらいに思っている。しかし、それとおまえと
は別だ。松野さんは、いまでこそ職人ふうにしているが、もともとは家柄
のいい坊ちゃんじゃないか。うちとは、とうていつり合いがとれん。わし
らの手のとどくようなひとじゃないんだ。わるいことはいわない。どうか、
松野さんのことは、あきらめてくれ」
 勝次は、額を畳にこすりつけるくらい、深々と頭をさげた。
「別の縁談もきていることだし、そちらを考えてみてくれ」
「どうしてですか」
 春恵の目がうるんできた。
「どうしてもだ」
「それは、私が、捨て子だからですか」
 春恵の口を、そんな言葉がついてでた。勝次には、思いもよらなかった。
沈黙がつづいた。

                           (つづく)

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by revenouveau | 2007-02-05 09:47 | 小説のようなもの