勝次は、ようやく手をやすめて、顔をあげた。 「おじゃましています。きょうは、いろいろと、お願いごとがあってうか がいました」 葉蔵は、ころあいを見計らって、勝次に声をかけた。勝次にとって葉蔵 は客だったが、それは職人である葉蔵の、職人に対する礼儀を感じさせる ものだった。 「いらっしゃい。どれ、私もひとつ麦茶をもらおうか。おい、ばあさん」 勝次は、妻の正子をよんだ。 「きょうは、客人の多い日だ。ついいましがた、ふたり帰ったところです。 ところで、葉蔵さん、きょうはなにか」 葉蔵は、突然の訪問をわびると、この夏、和田島へ妻とつれだって帰る ことや、そのあとの簀桁の注文は松野がすることになるなど、こまごまと 話した。 「そういうわけで、これからは、この松野泰昭さんとも、私との付き合い 同様にお願いしたく思います」 松野は、葉蔵の脇で居ずまいをただして頭をさげた。 「和田島ならば、葉蔵さんも、まだ紙を漉くのでしょう。いままでよりは とおくなりますが、ときどきは顔をみせてくださいよ。それから、松野さ ん、どうぞ、よろしくお願いします。おたがいに職人どうし、注文はきび しくつけてください」 勝次の目をまっすぐ見つめて、松野は、はいと快活にこたえた。芯のあ るひとりの男がそこにいるのを、勝次は、はっきりとみていた。長年の職 人の眼にくるいはない。 これからのことをよろしく伝えると、葉蔵と松野は、勝次の家を辞した。 春恵が、坂道の途中までふたりを見送ってくれた。 富士宮の山の杉の木立にあぶら蝉がしげく鳴くようになったころ、葉蔵 は、和田島へと帰っていった。その日は、せいの実家からも手伝いがきて、 にわかにひとがふえて祭りの日のようなにぎやかさだった。 葉蔵たちがいなくなって、松野は、空蝉のようになるのではないか、と 思っていたが、案外そうではなかった。なん百回と弓を引きわけ、なん十 枚と紙を漉いた。葉蔵が残してくれた得意先がいくつかあったし、松野の 評判を人づてにきいた書家や画家などの注文もしだいにふえていった。松 野には、さびしさに浸っているひまはなかった。弓を引きわけ、紙を漉く ことが、松野の日々を律していたのである。 (つづく) 「紙の子守歌」は、毎週月曜日・木曜日(平日)に掲載します。 << よろしければクリックを
by revenouveau
| 2007-01-15 10:00
| 小説のようなもの
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