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紙の子守歌   (15)



 松野は、胴造りをはじめていた。
 肩のちからをぬき、背すじをのばして、ゆっくりと呼吸をととのえる。
弦の中仕掛に矢筈をつがえ、頭のあたりで弓を構えると、矢を水平にた
もちながら左右に引き分けていく。
 しなっていく弓と張りつめた弦を見つめながら、山並は、そこに色香
が漂うのをおぼろげながらとらえていた。それは、なにか説明できない
感情だった。
 矢は、頬骨のしたに軽くふれて引きおさまった。機が熟していく。
 おや、沢があるのだろうか。このとき、山並は、水の音をきいた。
 的場には、高さ一メートルほどの砂の壁が築かれ、裾のほうに一間の
間隔で、同心円の霞的がふたつおいてある。砂壁には簡素な屋根がのり、
一見すると檜皮ぶきのちいさな上土門にだかれているようにみえた。
 しかし、松野がみているのは、的の中心だけだった。
 水の音は、山並の耳に、はっきりときこえた。
 弦の弾かれる短い音がした。そして、矢が大気を貫いていく長い音、
つづいて的を射す短い音。余韻がここちよい。自然な離れだった。
 ふと道場の脇に目をやると、射場の板壁に掛けた蝉籠に、思いがけず、
沢桔梗と鷺草が投げいれてあった。野趣にあふれた初秋の花は、主人の
もてなしだろうか。山並は、いまのいままでそれに気づかずにいた。
「お待たせしました」
 松野は、額と首すじの、うっすらとかいた汗に手ぬぐいをあてながら、
板の間のあがり端に坐った山並に歩みよってきた。山並は、あらためて
衿をただし、訪問の趣旨をのべ、あいさつをした。

                           (つづく)

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「紙の子守歌」は、毎週月曜日・木曜日(平日)に掲載します。

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by revenouveau | 2006-10-23 09:44 | 小説のようなもの
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