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め き き   (5)



              ■□■

 二年前までは、自分がこうして骨董屋の帳場にすわっていようとは、
保雄には考えもおよばなかった。〈蔵屋〉の帳場にすわりはじめ、やが
て一年半が経つが、そのきっかけは突然のようにおとずれた。
 二十歳をすぎたころ、保雄は美術大学で現代彫刻を専攻するかたわら、
独学で能や狂言の面を打つようになっていた。どういう拍子でそうなっ
たのかはともかく、そこに骨董を商う〈蔵屋〉の主人で書を趣味として
たしなんできた父・幸蔵の血を思わずにいられなかった。
 各地で個展をひらきながら精進をつづけ、面を打つことで、いつしか
口に糊することができるようになったのは、三十歳を目の前にしたころ
だった。彼の仕事は、めだたなかったが、打たれた面はたしかな評価を
得てひろまり、地元から神楽の古面の復元を依頼されたこともある。伊
豆長岡の静かな山あいの地に、古い民家の離れを借りて工房を築いたの
は、ちょうどそのころだった。気どらないのがいいだろう、そういって、
父が〈草木庵〉と名づけた。伊豆長岡は、頼朝とあやめ御前のゆかりの
地でもある。保雄は、そこが、ふたりの恋物語の舞台であることにちな
んで、はじめの試みとして、「あやめ」という創作面を打ったが、無欲
のなせるわざか、思いもよらぬ話題をよんだ。そして、いつしか保雄の
工房は、熱海の能楽堂や修善寺の能舞台で演能をおえた役者たちがかな
らず立ち寄る拠点ともなっていった。

                           (つづく)

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「めきき」は、毎週月曜日・木曜日(平日)に掲載します。

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by revenouveau | 2006-04-24 08:19 | 小説のようなもの
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