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う つ わ   (8)



 幸一は、矢をつがえた弦をゆっくり引きおさめると、呼吸をととのえ、
的を狙った。霞的のまんかなが、はっきりと見えてくる。そのとき、弦
と指とが、ほとんど自然のように解かれていった。
「やったよ! やったよ、源じぃ。はじめは、的が、矢がとどかないほ
ど遠くに見えて…。かと思ったら、こんどは、的が、どんどん、おおき
くなって…。ぼくの身体がのみこまれていったんだ。もう、そのときは、
はずれる気がしなかったよ」
 幸一は、飛びあがってよろこんだ。
 源造は、幸一の目を見つめ、深くうなずいた。
「どうなってるんだろう。ねぇ、源じぃ」
「心の持ちようだ」
「こころって?」
「人の心というものは、針の穴よりちいさくもなれば、空よりもおおき
くなることもできる。心を、どう用いていくかが問題だ。それは、人間
の、うつわのおおきさによるのだろう。おまえは、いまちょうど、心を
用いる道の入り口にたっている」
 源造は、そういって、人の心のふしぎについて、しばらく言葉を連ね
ていった。しかし、幸一に、源造のいう真意をくみとることは、むずか
しかった。けれども、ふだん口数のすくない源造が、思いのほか多くを
語ったことに、なにかだいじなことがふくまれていることだけは、たし
かに感じていた。
 天城の冬の朝。はじめて矢をつがえた日を、幸一は、いつまでも忘れ
ることはなかった。

                           (つづく)

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「うつわ」は、毎週月曜・木曜日(平日)に掲載します。

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by revenouveau | 2006-02-13 08:50 | 小説のようなもの
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